この言葉を使い続けて失ってきたもの。

暮らしのさじ加減

入学、引っ越し、就職など、新しいことが始まる季節は、いつだって希望に満ちあふれています。私自身新生活を間近に控え、「よし、頑張るぞ!」と意気込み十分…のですが、どこにいても何をしてもなぜか不安に思ってしまうこと。

『わたしの居場所はどこだろう。』

居場所が分からないのは自分自身に原因があったのだと、一冊の本を読んで気付くことが出来ました。


その本は、金子由紀子さんの「暮らしのさじ加減—ていねいでゆっくりな自分にちょうどいい生活」です。
ブックデザインは「鈴木成一デザイン室」。(鈴木成一さんの本も色々読みたいです。)
「1、特別な日より、ふだんの日が大切」「2、心地いい暮らしをつくるもの・こと」「3、自分だけのものさしをもって暮らす」「4、何があっても、大丈夫でいたい」の全四章で構成されています。全体を通して良い気付きの連続だったのですが、第一章の中に、最もグサッとくる一文がありました。

「忙しい」を連発する人は、とても景気よさげだけれど、みんな怒りっぽくて近寄りがたい。颯爽としているが、目の前にいる人よりも、目の前にあるモノよりも、自分の忙しさのほうが大切なのだ。

思い返せば、大学入学を期に東京に来てからというもの、私の人生は「忙しい」の連続でした。ときにはそのおかげで充実感を味わったこともあったけれど、「忙しい」を言い訳にして、自分の暮らしの軸や習慣、人間関係を疎かにしてしまったこともありました。
“これからは、特別な日のご褒美のために頑張るのではなく、日々の暮らしの質をあげていこう。そして、心にゆとりを持って生きていこう。”

それは、例えば小さなことでも良いと思っています。コーヒーは自分でドリップして淹れる、出汁は化学調味料を使うのではなく自分でとる、永く大切に使い続けられるモノを買う、LINEではなくたまには手紙を書いてみる、などなど。
それらは手間がかかり、ときには面倒くさいと思ってしまうことではありますが、「忙しさ」に気をとられて、生活の全てを便利でお手軽な代替物で済ませていると、結局何も残らず(悪い習慣だけが染み付き)、自分の「居場所」さえも曖昧になってしまうように思うのです。

引っ越しまであと少し。何年住むか、今はまだ分かりませんが、そこを旅立つとき、見渡せば「ガラクタ」だらけ、なんてことのないように。いつだって、どこでだって「ここがわたしの居場所だ!」と逞しく生きられるように。
なんてことない普通の日に培われる「良い習慣」こそ財産なのだと思います。

amiko
編集者、デザイナー、宣伝のお仕事などを経験。現在は「デザインライター」として活動中。プログラマーとしてもお仕事をしています。好きなことは、読書、音楽(主にジャズ)、旅行。

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